2016年05月26日
5月26日に関東地方で椋平虹が出た警戒を!台湾の地震研究所も日本の東南方面でM7,6大地震を予測
5月26日に関東地方で椋平虹が出た警戒を!台湾の地震研究所も日本の東南方面でM7,6大地震を予測
5月28日頃まで警戒を・「管理者」
【注意】台湾の地震予測研究所が最新予測を発表!日本近海でM7.6の
強震予想!8日以内に70%程度の確率
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-11702.html
2016.05.26 06:00 真実を探すブログ
台湾の地震研究所はラドン濃度などの変動を観測しており、大地震前に
見られる大きな動きを観測した時に警告を発しています。的中率は
五分五分という感じで、絶対に当たるというわけではありません。
ただ、熊本地震や台湾地震前に注意を呼び掛けるなどの実績があり、
馬鹿には出来ない予測だと言えます。日本近海ではマグニチュード
7.6クラスの大地震が予測されているので、外れることを祈り
ながら念の為に注意しておきましょう。
椋平虹に付いての参考記事
http://okakuro.org/mukuhiras-arc/
そして17歳になった年、1919年5月19日の夕暮れ、椋平少年がふと空を見上げると
、湾の対岸に当たる栗田半島、その山の稜線近くに『虹の切れ端』のようなモノが見えた。
少年が名古屋で地震があったことを新聞で知るのはその2日後のことだった。その後も
、『虹の切れ端』を見るたびに、どこかで地震が起こった。
その虹について宮津の老漁師に質問してみると、老漁師はそれが『日の粉』なのだと
言った。日の粉が出た後は、必ず3日のウチに海が荒れるか天変地異が起こるのだ――と。
この日から、椋平少年の虹の観察が始まった。1日3度、宮津港の決まった場所から、
栗田半島の高峰を見つめ、様々なデータをノートに書き込んでゆく。虹が確認できた
ときは、児童用のセルロイド分度器で角度を測り、形を写し取る。椋平はこの作業を
この後、60年続ける事になる。
椋平はやがてこの虹を『短冊形光象』と呼ぶようになるが、この光象を観察し始めて
から翌1920年5月までの1年で7回の的中をみたと研究ノートに書き残している。
「大正九年五月までに、同現象を七回ほど目撃し、地震のあったことも報道されたので、
地震と関係あるものと疑問を抱き、これを研究することに決心した。家業に従事しながら
引きつづき観測した」
宮津の一色儀十郎という老人の一言も椋平の背中を押した。一色老人は『日の粉』に
ついて、こんな事を言った。
「あの虹が出た後は、必ず何かが起こる。明治24年10月27日、その日も虹が出た。
そしてその次の日に大地震が来た」
そう、濃尾大震災だ。この言葉は椋平少年に、運命的なものを感じさせたに違いない。
だが、この椋平虹はこの時点で科学的根拠のない民間伝承の類――いわゆるオカルトの
一形態に過ぎず、地元の弁論会で『虹による地震予知』を発表した椋平に待ち受けて
いたのは、賞賛や激励などでなく、罵倒の洗礼だった。
「インチキ」――「詐欺師」――「ペテン師」まるで類語辞典を引いたかのような罵詈雑言が
椋平に浴びせかけられた。
そして迎えた1923年。椋平19歳の夏。いつもの観測に出向いた椋平は、そこで虹を見た。
激震――関東地方。明日。
そして、翌日。歴史的災害、関東大震災が起こった。
震度7、マグニチュード7.9、死者行方不明者10万5千人超、家屋全壊10万9千、
全焼21万2000。未曾有の大災害だった。
椋平と言えば前述の『北伊豆地震の電報』ばかりが取りあげられるが、じつはこの時にも
前日に電報を打っていたという。
「アス ヒル ダイジシンアル ムクヒラ」
宛先は東京帝国大学地震学教授、今村明恒博士。椋平は『関東に大地震が来る』という
立場を取る博士の著書に目を通していたため、取り合ってもらえるだろうと電報を打った。
だが、これは結局博士の手元には届かず予報にはならなかった。これに関しては後述する。
下記の大型警報の帯状地震雲の発生日の最終日は5月27日~28日です。「管理者」
速報、大型警報、M7前後~M8前後の帯状地震雲が発生
2016年5月17日午後7時頃に群馬県の西の空に、ほぼ
南北ラインのM7前後~M8前後の帯状地震雲が発生した。
